訳
masahito.nangaku@gmail.com · 2017/3/9
訳
masahito.nangaku@gmail.com · 2017/3/9
このページは、この本を実際の本のように見せかけるためだけのものです。紙の本では、一枚目か二枚目のページに、小さい文字で©2013. All Rights Reserved. などなどの文字がびっしりと書かれているでしょう。この本はアメリカ合衆国で印刷されました。その後には出版社からの、海賊版を抑止するための文章が載っていたりします。一部であっても、いかなる形式でも、この本を許可なく複製することを禁じます。その後に出版社についての情報が一二行あって、数字のられつが続くのが定番です。
お問い合わせは、JasperCollins Publishers, 99 St Marks Pl New York, NY 94105. まで。
12 13 14 15 16 LP/SSRH 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1
実際には、この作品はクリエイティブ・コモンズBY-NCライセンスによって管理されています。つまり、著作権者を表示した非営利の使用である限り、自由にシェアし、改変することが可能です。
アート・ディレクション:アリ・アルモサウィ 絵:アレヤンドロ・ジラルド
“私は誤謬の事典が大好きだ。
この本は、論証の誤りについての、誤りのない概論だ。”
“論証の技術や落とし穴が、素晴らしくわかりやすい形でまとまっている。論理的に話を進めるための基本を教え、確認するのに、これ以上の方法はない。喜ばしい一冊だ。”
この本は、はじめて論理的推論に触れる人たちに向けて書かれた。パスカルの言葉を借りれば、視覚を通じてもっともよく理解する者たちには、とりわけ向いているだろう。推論において陥りやすい十九の誤りを選び、記憶に残るイラストやたくさんの具体例をつけて、説明した。読者がこの本を通じて、論証にありがちな落とし穴を知り、実際の議論の際にも落とし穴を見つけ、避けることができるようになってくだされば、作者としては望外の幸せである。
論理や論理的誤謬について書かれた本は多く、その内容も広範囲にわたる。より建設的な議論のために、読者がよい推論の道具を使えるようになり、模範的な推論ができるようになることを目的とした本もある。しかし、してはいけないことについて読むことも、また、役に立つ学習だろう。スティーブン・キングは『書くことについて』(On Writing)の中で、「どう書いてはいけないかを学ぶ一番良い方法は、悪い散文を読むことだ」と述べている。彼自身、特にひどい小説を「文学における天然痘ワクチン」として読んできたという[King]。数学者のジョージ・ポリアは、数学の教え方について講義をする中で、対象を理解するだけでなく、どうすれば対象を誤解することになるのかについても学ばなければならないと述べたとされる[Pólya]。そんなわけで、この本では、主に、論証の中でしてはいけないことについて書いた1。
さらに、この本の新しいところは、今日の対話の中で多く見られる推論の誤りを説明するために、生きいきとしたイラストがつけられているところである。これらのイラストは、オーウェルの『動物農場』(Animal Farm)のような寓話や、ルイス・キャロルの物語や詩のようなユーモアあふれるナンセンス作品にヒントを得て描かれている。イラスト同士に物語的なつながりはない。同じスタイルと主題は貫かれているものの、それぞれ別のシーンである。その方が、応用が利くし、再利用もしやすいだろう。それぞれの誤謬は1ページで説明されているから、読者も内容を理解し、覚えることが容易だろう。
***
1 逆を試みた本としては、エドワード・ダーマ―(T. Edward Damer)の『ダメ推論をやっつけろ』(Attacking Faulty Reasoning, 邦訳未刊)がある。
何年も前のことになるが、私は一階述語論理を用いてソフトウェアの仕様書を書いていた。一階述語論理とは、日常の言葉ではなく数学を用いた、推論のための興味深い方法だ。曖昧さが隠れている箇所や、手ぶれのあるような箇所は、一階述語論理を用いることによって、精確なものになった。
同じ時期に、私は命題論理についての本を何冊か買った。そのうちの一冊に、ロバート・グラ(Robert Gula)の『ナンセンス:論理的誤謬のハンドブック』(Nonsense: A Handbook of Logical Fallacies, 邦訳未刊)[Gula]があった。この本を読んでいて、私は、十年ほど前に、ノートに、どう議論を進めればいいかについての考えを書きとめていたことを思い出した。そのノートは、インターネットの掲示板で見知らぬ人たちと対話した経験からつくったもので、たとえば、「物事についての普遍的な主張をしようとするな」といったことが書かれていた。今となっては当たり前に思えることだが、一学生だった私にとっては、新鮮な発見だったのだ。
推論を公式化することが役に立つと認識するまでに、時間はかからなかった。そうすれば、考えや表現は明解なものになり、客観性は増し、自信にもつながる。他の人の論証を分析できるようになれば、不毛な議論からいち早く撤退できるようにもなる。
私たちの生活や社会は、自由権や大統領選挙のようなテーマと大きな関係があり、私たちはしばしば政治的信条について議論することになる。そういった対話を眺めていると、正しい推論が、あまりにも見られないことに気づかされる。
もちろん、論理だけが議論の道具というわけではない。他の道具についても知っておくことは、役に立つだろう。他の道具の筆頭として挙げられるのは、レトリックだろう。他にも、「立証責任」やオッカムの剃刀(ある現象を説明するために、必要以上に多くの仮定を導入してはならない。思考節約の原理とも)といった道具がある。興味のある読者は、これらのトピックについて書かれた他の本も読まれることをおすすめする。
最後に、論理の規則は、自然界の法則と同じものではないし、人間の推論のすべてが論理によってなされるわけでもないことを記しておきたい。マーヴィン・ミンスキー(Marvin Minsky)が警告しているように、普通の、良識的な推論は、論理の規則の用語によって説明することは難しいものだ。彼は、こうも付け加えている。「文法が、私たちがどうやって喋るのかを説明してくれないように、論理は、私たちがどう考えるのかを説明してはくれない」[Minsky]。論理は新しい真実を生み出すものではなく、既に存在する一連の思考が、首尾一貫したものであるかどうかを評価するためのものなのである。だからこそ、論理は、アイディアや論証を分析し、やりとりするための効果的な道具なのだ。
——A. A., サンフランシスコにて, 2013年10月
自分を騙してはいけない。一番簡単に騙すことができる相手は自分自身なのだ。
——リチャード P. ファインマン
ある言明に賛成あるいは反対するときに、もしその言明が真であったときに(または、偽であったときに)生じる結果に訴えることで論証を進めようとするやり方を、結果に訴える論証という。しかし、ある言明が好ましくない結果につながるからといって、その主張が偽であるということにはならない。同様に、言明がいい結果につながるからといって、その言明が真であるということにもならない。歴史家で作家のデビット・ハケット・フィッシャー(David Hackett Fischer)が述べているように、「原因の特性が、ただちに結果の特性でもあるということにはならない」[Fischer]のである。
生ずる結果がよいものである場合、論証は聞き手の希望に訴えるが、それは単なる希望的観測にすぎないことも多い。結果が悪いものである場合、論証は聞き手の恐怖に訴える。たとえば、ドストエフスキーの一節、「もし神が存在しないとすれば、何をしても許されてしまう」のように。客観的な倫理の問題はさておくとしても、純粋に唯物論的な観点から厳しい結論を下せば、神が存在するか否かについて、我々は何も言うことができないだろう。
こういった論証が誤っているのは、言明の真偽が問題になっている場合だけだということに、注意しておきたい。何かの決断や政策をめぐってこのような論証がなされたとしても、それは誤った論証ということにはならない[Curtis]。たとえば、政治家が、有権者の生活を脅かすことになるという理由から、税金を値上げに反対しても、論理的には何の問題もない。
この誤謬は、この本に収録されているいくつかの誤謬と同じく、燻製ニシンの一種である。燻製ニシンとは、議論を元々の話題から少しそらすことを指す言い方である。結果に訴える論証では、議論は本題から、言明の結果へとそらされることになる。
相手の論証をわざと歪めることで、実際の相手の論証ではなく、歪められた論証の方を攻撃することを、「藁人形を編む」という。間違った説明や間違った引用、間違った論証の組み立て方や、相手の立場の過度な単純化は、すべて藁人形論法につながる。多くの場合、こうして組み立てられた論証は、実際の論証より馬鹿げたものになっているため、攻撃しやすい。この論法を使うことで、元々自分が主張していた論証ではなく、おかしな論証を擁護するように、相手を仕向けることもできる。
たとえば、ダーウィニズムに懐疑的な論者は、「私の論敵は、私たちが皆、木の枝につかまってぶらぶら揺れているチンパンジーどもから進化したと主張しています。本当に馬鹿げた話です」と言うかもしれない。しかし、これは進化生物学が実際に主張していることではなく、間違った説明である。進化生物学が主張しているのは、ヒトとチンパンジーは、何百万年前もさかのぼると、共通の祖先にいきつくということだ。相手のアイディアを間違って説明する方が、そのアイディアの根拠に反論するよりも簡単なのだ。
権威者に訴える論証は、相手の謙虚さにつけこむ論証である。つまり、自分より他人の方が多くのことを知っているかもしれない[Engel]という気持ちを利用するのである。たしかに他人の方が自分より多くのことを知っている場合もあるが、いつもそうであるとは限らないことに注意しよう。科学者や学者がよくやるように、適切な権威者に訴えるのは、理にかなっている。原子や太陽系についての知識のように、私たちが信じていることの多くは、信頼できる権威者の述べたことを信じているだけだし、C. S. ルイス[C. S. Lewis]によれば、歴史についてのすべての記述も同じだ。しかし、その分野の専門家ではない、無関係な権威者に訴える論証がなされた場合、その論証は詭弁である可能性が高い。覚えておきたい似たような論証に、漠然とした権威者に訴える論証がある。これは顔のない集団にある意見を代表させる論証だ。たとえば、「ドイツの教授たちが、これこれが正しいことを明らかにした」といった具合である。
無関係の権威者に訴える論証の一つのタイプに、古代の知恵に訴える論証がある。昔に考えられたものであるというだけで、ある信念を正しいとしてしまう論証である。たとえば、「占星術は、当時、世界中で最も技術的に発展していた国のひとつである古代中国で行われていた[ので正しい]」というようなものだ。こうした論証を試みる人は、時とともに自然に捨てられていく奇妙な風習も存在したことを忘れがちである。たとえば、「現代人は十分な睡眠をとっていない。ほんの数世紀前までは、人々は夜、九時間寝ていたのだ」という主張がある。昔の人が今よりも長く寝ていたのには、いくつもの理由があると考えられている。彼らが長く寝ていたという事実だけでは、現代人もそうするべきだと主張する論拠としては不十分なのだ。
根拠のない結論を支持するために、言語の多義性を利用して、論証の途中で言葉の意味を変えてしまい、複数の意味で用いることを、多義語の誤謬という2(言葉の意味が論証を通して一定である場合、その言葉は一義的に使われているという)。次のような論証を考えてみよう。「君が信仰(faith)を持っていないはずがないよ。君はいつだって、根拠がなくとも信じる(leap of faith)方に賭けるじゃないか。投資をするときも、友達を信じるときも、婚約するときだって」。ここでは、「信仰」(faith)という言葉が、最初は宗教的な信念を表す意味で用いられているが、途中から、リスクを引き受ける意思を表す意味へと変えられている。
この誤謬は、科学や宗教をめぐる議論でよく用いられる。こういった分野では、「なぜ」という言葉が多義的に用いられることがある。ある文脈では、「なぜ」という言葉は原因を問う意味で用いられる。この意味の「なぜ」は、科学の原動力である。また別の文脈では、目的を問う意味で用いられる。こちらは、科学が答えを持たないかもしれない、道徳性などの領域を問題にしている。たとえば、こんな論証が考えられる。「科学は、我々のなぜに答えてはくれません。我々はなぜ生きるのか? なぜ道徳的にふるまわねばならないのか? だから、我々には、なぜ物事が起きるのかを説明してくれる、科学以外の何かが必要なのです」。
2 このイラストは、ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』での、アリスと白の女王のやりとりに基づいている。
限定された二つの区分を提示して、議論で扱われているすべてのことがらは、その二つの区分のどちらかであるかのように論じるのが、偽りのジレンマである3。これによって、一方の区分を否定しようとする人は、もう片方の区分を支持するものとみなされてしまう。たとえば、「狂信者たちとの戦争において、第三者など存在しない。我々の味方か、そうでなければ敵だ」といった具合である。実際には、第三者の視点というものは存在するし、中立的な立場だってありうるのだ。両方に反対という四番目の立場だって考えられるし、両方に賛成という五番目の立場もあるかもしれない。
『量子の海、ディラックの深淵』(The Strangest Man)において、ポール・ディラックの伝記作者は、物理学者のアーネスト・ラザフォードが同僚のニールス・ボーアに話したという寓話を引用している。ある男がペット・ショップでオウムを買ったが、喋らないと返品しにきた。オウムは何度も買われては、同様の理由で返されてきた。何度目かに返品されたとき、ペット・ショップの店長は言った。「ああ、喋る方のオウムが欲しかったのですね。ごめんなさい。考える方のオウムをお売りしていました」[Farmelo]。ラザフォードは、寡黙な天才ディラックを描写するためにこの寓話をつかった。しかし、同じような論法を使って、人は寡黙な思索家か、そうでなければおしゃべりな愚か者だと主張することも可能であることは、想像に難くない。
3 この誤謬は、「排中の誤謬」や「白か黒かの誤謬」、「偽りの二分法」とも呼ばれる。
この誤謬は、証拠もないのに、ある出来事の原因を断定してしまうものである。二つの出来事が次々に(あるいは同時に)起こったとしよう。ただの偶然でそうなったのかもしれないし、何か別の未知の要素によってそうなった[未知の要素が両者の原因だった]のかもしれない。証拠なしには、一方の出来事が他方の出来事を引き起こしたとは結論できないのである。「この前の地震は、わしらが王様に逆らったから起きたのだ」というのが、いい例だろう。
この誤謬は二つの典型的なタイプに分けられる。「前後即因果の誤謬」[この後に、したがって、これ故にの誤謬]と、「同時即因果の誤謬」[これと同時に、したがって、これ故にの誤謬]である。前者では、ある出来事がもう一つの出来事よりも先に起こったことを理由に、ある出来事がもう一つの出来事の原因だとされる。後者では、ある出来事がもう一つの出来事と同時に起こったことを理由に、ある出来事がもう一つの出来事の原因だとされる。こういった誤謬は、多くの学問分野で、相関関係と因果関係の混同として知られている4。
コメディアンのスチュワート・リー(Stewart Lee)は、次のようなことを言った。「俺は1976年にロボットの絵を描いたんだ。そしたら、映画『スター・ウォーズ』が公開された。だからって、スタッフが俺のアイディアを盗んだとはいえないよなあ」。最近私がインターネットで見かけた次のような書き込みも、いい例だろう。「ハッカーが鉄道会社のサイトを攻撃したことがあった。その後に、運行スケジュールをチェックしたら、なんとすべての電車が遅れていたんだ!」。電車は様々な理由から遅延しうるのだから、科学的な対照実験なしには、ハッカーこそが遅延の原因だったという推論には根拠がないということを、この書き込みをした人は見落としていたのだ。
4 チョコレートを食べることとノーベル賞を取ることの間には、高い相関関係があることがわかっている。チョコレート好きにとっては朗報かもしれない。
この誤謬は、もしある主張が受け入れられると、恐ろしい未来がやってくると想像することで、聴衆の恐怖に訴えるものである。この論証は、ある主張が特定の結果に結びつくと確かな論拠をもって訴える(その場合、恐怖は正当なものかもしれない)わけではなく、レトリックや脅し、明らかな嘘を用いるのが常である。たとえば、「労働者の皆さん、今度の選挙では、私の選んだ候補者に一票をお願いします。もし対抗馬が当選してしまえば、増税がなされ、皆さんの多くは職を失ってしまうでしょう」といった具合だ。
小説『審判』(The Trial)から、別の例を見てみることにしよう。「警察が来る前に、貴重品を全部私に預けなさい。警察は貴重品を倉庫に入れてしまう。そして、倉庫に入れられたものは大抵どこかへ消えてしまうのだ」。この議論はわずかに脅しの色を帯びてはいるが、論理的に話を進めようという試みはなされている点に注目されたい。論拠を示そうという試みの見られない、単なる脅しや命令は、たとえそれが聞き手の恐怖に訴えるものであったとしても、この誤謬とは別であり、混同してはならない[Engel]。
恐怖に訴える論証が進行し、主張を受け入れることで引き起こされる一連の恐ろしい出来事を、確かな因果関係なしに提示するようになると、論証は滑りやすい坂道の議論を思わせるものになる。また、論者が、自分の訴えこそが、攻撃の対象となっている主張の唯一の代替案であるというとき、論証は偽りのジレンマを思わせるものとなる。
小さすぎるサンプルや、代表としては特殊すぎるサンプルから結論を引き出そうとするのが、この誤謬である。たとえば、財政赤字を減少させようという大統領の政策についてどう思うかを、道を歩いていた十人に聞いたとしても、それは国全体の意見を測定したことにはならないだろう。
早まった一般化は手軽にできるが、破滅的で、高くつく結末へとつながってしまう。たとえば、アリアン5ロケットの、最初のテスト飛行での爆発は、工学上の決めつけのせいで引き起こされたともいえる。コントロール・ソフトウェアは、一世代前のモデルであるアリアン4ロケットで何度もテストされていたが、これらのテストはアリアン5で起こりうるすべてのシナリオを網羅してはいなかった。だから、データをそのまま使ってよいと考えるのは誤りだったのである。エンジニアや管理職が、早まった一般化が論理的誤謬であると論じることができれば、このような誤った決断が通ることはなかったはずである。
『不思議の国のアリス』には、こんな例がある。アリスは駅の近くの海の中に浮かんでいる。その状況を理由に、アリスは誰か助けてくれる人が近くにいるだろうと考えるのだ。「アリスは海辺に、人生で一度だけ行ったことがありました。そしてアリスは、その経験から、一般的な結論を導き出していたのです。つまり、イギリスの海岸なら、どこに行ったって更衣車が海に浮かんでいて、子供たちが木製のシャベルで砂を掘っていて、貸し別荘が立ち並んでいて、その向こうに駅があるものだ、と」[Carroll]。
偽であるという証拠がないことを理由に、ある命題が真であるとする論証のこと5。つまり、偽であるという証拠がまだ見つかっていないことが、偽であるという証拠が存在しないことの証拠として使われているのだ。カール・セーガンがこんな例を挙げている。「UFOが地球を訪れていないという説得力のある証拠はない。よって、UFOは存在する」[Sagan]。似たような例として、ピラミッド建設の仕組みが明らかになる以前は、ピラミッドは超自然的な力でつくられたと信じていた人たちがいた。もちろん、そんなことはなかったのだが。実際は、「立証責任」は、いつだって主張をする側にあるのだ。
より論理的には、過去の観察から得られた証拠から、何がもっともありえそうな話なのかが問われるべきだ。実際、そうしている人たちもいる。たとえば、「宇宙を飛んでいるあの物体は、人工的につくられたものかもしれないし、自然現象かもしれないし、地球を訪ねてきた異星人なのかもしれない。我々は人工物や自然現象を頻繁に観測するが、異星人を観測できたことは一度もない。だから、UFOは地球を訪ねてきた異星人ではない可能性が高い」といった具合である。
無知に訴える論証の一形式に、個人的懐疑に訴える論証がある。これは、自分には想像できないという理由から、あることが偽であると結論づける論証である。たとえば、「月に人が降り立ったなんて、想像することもできないよ。だから、人類の月面着陸はなかったんだ」といった具合である。こんなことを言えば、「だからお前は物理学者になれなかったんだよ」と逆襲されるのがオチである。
5 このイラストは、UFOについての質問への、ニール・ドグラース・タイソン(Neil deGrasse Tyson)の返答に着想を得たものである:youtu.be/NSJElZwEI8o
あるグループについての一般的な主張をした人が、何らかの証拠をもって反論されたときに、この論法が登場する。反論された人は、立場を修正したり、証拠をめぐって争うのではなく、恣意的にそのグループのメンバーの規準を変えることで、反論から逃れるのだ6。
たとえば、プログラマーは社会的スキルを持たない生き物だと断定した人がいたとしよう。誰かが、「でも、ジョンはプログラマーだけど、社会的なスキルを立派に持っているよ」と言って、その主張を否定する。そうすると、最初に主張した人は、次のような応答を返すかもしれない。「そうだね。でも、ジョンは真のプログラマーとは言えないから」。ここでは、プログラマーとは、いったいどんな属性を持つ者なのか、明らかになっていない。ここでいう「プログラマー」は、たとえば、「青い目の人」ほどには明確に定義されたカテゴリーではない。この曖昧さのおかげで、頑固な頭の持ち主は、好きなように定義を変えることができるのである。
この誤謬は、アントニー・フリュー(Antony Flew)が、著書『考えることについて考える』(Thinking about Thinking, 邦訳未刊)でつくった言葉である。ここで彼が使った例は、次のようなものだった。ハミッシュが新聞を読んでいると、イングランド人による凶悪犯罪の記事が載っていた。彼は、「スコットランド人ならこんな犯罪はしないよ」と呟いた。次の日、彼が新聞を開くと、スコットランド人がさらに凶悪な犯罪をおかしたという記事が載っていた。ハミッシュはスコットランド人に関する自説を撤回する代わりに、こう言ったのだった。「こんなことをするやつは、真のスコットランド人じゃないな」[Flew]。
6 攻撃者が、カテゴリーの定義を、悪意によって意図的に変えており、さらにその自覚がある場合、その議論は藁人形論法を思わせるものとなる。
ある論証が、その起源のためだけに、けなされたり擁護されたりすることを、発生論の誤謬と呼ぶ。実際には、その論証の歴史や、その論証を行っている人の生い立ちがどうであろうと、論証そのものの価値には何の影響もない。T. エドワード・デイマーが指摘する通り、論者がアイディアの起源に感情的に愛着を持っている場合、その人の感情を傷つけることなく、論証の利点を検討することは、そう簡単なことではない[Damer]。
こんな論証を考えてみよう。「そりゃあ、あいつは労働組合のストライキを支持するだろうよ。結局のところ、あいつも同じ村の住人だってことさ」。ここでは、労働者たちを支持することは、その利点に基づいて検討されているのではない。労働者たちを支持している人物が、ストをしている人たちと同じ村の出身であるということによって、我々は彼の立場が無価値なものだと思い込むように仕向けられるのである。別の例を挙げよう。「21世紀に生きる我々としては、そんな青銅器時代の考えを持ち続けるわけにはいかないね」。なぜ青銅器時代の考えを持ち続けてはいけないの、と聞き返せばいい。青銅器時代に起源をもつ全ての考えを、単にその時代のものだからという理由で捨て去ろうというのか?
逆に、何かに賛成するときに、発生論の誤謬に訴えることもできる。たとえば、「ジャックの見解に、異論をはさむ余地はないと思うね。なんてったって、彼は偉大な芸術家を多数輩出してきた家系の出なんだから」といった具合である。この推論は、今までの例と同様、証拠を欠いたものだ。
社会的に悪者とされている人や集団によって支持されているアイディアであるという理由で、ある論証の評判を下げようとするのが連座の誤謬である。たとえば、「私の論敵が提案している医療制度は、社会主義国のものにそっくりです。明らかにそんなものは受け入れられません」といった具合である。社会主義国の医療制度に似ているかどうかは、その制度が良いか悪いかとは無関係である。これは明らかに、不合理な結論だ。
次のような議論は、いくつかの社会で、嫌になるほど繰り返されてきた。「女性に車を運転させてはならない。なぜなら、神を信じない国には、男性が女性に運転させるという文化があるからである」。本質的には、これらの例が論じようとしているのは、ある集団に属する人々は、完全に、そして無条件に悪であるということだ。かくして、その集団と何か一つでも共通点がある人は、その集団の一員とみなされ、その集団に関係する悪をすべて引き受けさせられてしまうのである。
妥当な論証の一つに、モーダス・ポネンス(前件肯定)と呼ばれるものがあり、次のような形をとる。AならばCである。Aである。従って、Cである。より形式的には、A ⇒ C, A ⊢ Cと表される。Aは前件、Cは後件と呼ばれ、両者は二つの仮定と一つの結論を構成する。たとえば、
仮定:AならばCである。
(水が海水面で沸騰しているとき、その水の温度は少なくとも100℃である) ̅。この水は、海水面で沸騰している。従って、この水の温度は少なくとも100℃である。
仮定:Aである。 結論:Cである。
このような論証は、妥当であるだけでなく、健全な論証である。
後件肯定とは、次のような形式をとる形式的誤謬である。AならばCである。Cである。従って、Aである。結論が正しいから、仮定も正しいと考えてしまったところに誤りがある。実際には、そんなことはないのである。
たとえば、「大学に通った人々は成功している。ジョンは成功している。従って、ジョンは大学に通ったに違いない」といった具合である。ジョンの成功が大学に通ったことの帰結である可能性はあるものの、彼の育ちによるものだったかもしれないし、逆境を乗り越えようとする精神のおかげだったのかもしれない。一般的に、大学に通った人だけが成功しているわけではないのだから、ある人が成功しているからといって、その人が大学に通ったと断定することはできない。
「お前だって」を意味するラテン語、tu quoqueの名でも知られているこの誤謬は、誰かの論証に反論するために、相手自身の過去のふるまいや言葉と矛盾していることを指摘するものである[Engel]。非難に対して非難を返すことによって、この論法は、論証そのものから論証をしている人へと話題をそらす。この特徴から、この誤謬は一種の人身攻撃であるといえる。もちろん、立場が一貫していないからといって、必ずしも相手の立場が正しくないということにはならない。
イギリスのTV番組Have I Got News for Youの一エピソードで、ロンドンで行われた強欲な企業に対する抗議活動に、パネリストが反対する場面があった。反対の理由は、抗議活動をしている人々は、資本主義に抗議しながらも、スマートフォンを使い、コーヒーを買い続けているのだから、偽善者であるというものであった7。
もうひとつ例をあげよう。ジェイソン・ライトマン監督の『サンキュー・スモーキング』(Thank You for Smoking)における、お前だって論法にもとづくやり取りの中での、雄弁なタバコのロビイスト、ニック・ネイラーによる発言だ。「このヴァーモントからこられた紳士が、私を偽善者だとおっしゃるのは、聞いていて少々くすぐったい気持ちになりますね。彼は一日の中で、アメリカのタバコ畑は刈り取られ、焼かれるべきだという記者会見を開いたかと思えば、そのままプライベート・ジェットに飛び乗って、ファーム・エイド[アメリカの農家を応援するチャリティー・コンサート]に駆けつけ、アメリカの農家の凋落を嘆き、ステージ上でトラクターを乗り回したのですから」。
7 この場面は、以下で見ることができる。bookofbadarguments.com/video/hignfy
ある主張を採用すると、確実に望ましくない出来事が一つ以上起きてしまうと論じることによって、その主張を却下しようとすることを、滑りやすい坂道の論証と呼ぶ8。このような論証の中で起こるとされる出来事は、たしかに起こる可能性のある出来事かもしれない。一つ一つの変化は、一定の確率で起こりうるだろう。しかし、このタイプの論証は、証拠がないにもかかわらず、すべての変化が確実に起こることを前提としているのである。この誤謬は、聴衆の恐怖に働きかけるものであり、恐怖に訴える論証や誤ったジレンマ、そして結果に訴える論証のような誤謬とも関係している。
たとえば、「インターネットへの自由なアクセスを許してはいけない。そんなことをしたら、みんなポルノサイトに入り浸りになり、あっという間に我々の道徳規範は崩壊し、人類はケダモノに戻ってしまう」と言う人がいる。誰の目にも明らかなように、この論証は、インターネットアクセスが社会の道徳規範の崩壊をもたらすということについて、根拠のない推論の他には何の証拠も示していない。さらに、この論証は、社会での人々のふるまいについて、いくつかの勝手な仮定を置いてしまっている。
8 ここで説明されている滑りやすい坂道の論証は、因果関係にまつわるタイプのものである。
衆人に訴える論証としても知られている。この論証は、あることを信じている人がたくさんいる(あるいは、多数派である)という事実を、そのことが正しいことの証拠として扱うものである。このタイプの論証が、先駆的なアイディアが人々に受け入れられることを阻んだ例も多い。たとえば、ガリレオが、太陽系の中心は太陽であるというコペルニクスの正しいモデルを支持して笑いものになったのは、当時の人々のほとんどが、太陽が地球の周りをまわっていると信じていたからである。より最近の例として、H. ピロリ菌が消化性潰瘍を引き起こすと主張した医師のバリー・マーシャルは、最初は科学界から総スカンをくらったのである。
広告はしばしばこの方法を用いる。ただ多くの人が使っているというだけの理由で、消費者に何かを使わせようとするのだ。たとえば、「クールなやつらは皆このヘア・ジェルを使っている。君も仲間入りしよう」といった具合だ。「クールなやつら」になるのはたしかに魅力的な提案だが、広告の品を買えという要求とは何の関係もない。政治家も、キャンペーンを勢いづけ、投票者に影響を与えるため、しばしばこの手のレトリックを用いる。
人身攻撃(ad hominemは「その人に」を意味するラテン語に由来する)とは、論証そのものを批判するのではなく、その論証をしている人を批判することである。人身攻撃は、議論から目をそらし、相手の論証の評判を落とすことを目的としている9。たとえば、「あなたは歴史家ではないですよね。ご自分の専門分野に専念されたらどうです?」といった具合である。ここで、論者が歴史家ではないという事実は、その人の論証の価値とは何の関係もない(もちろん、歴史家以外の人の主張は自動的に間違いだということにはならない)のだから、人身攻撃をしたからといって、攻撃した人の立場がよくなるわけではないのだ。
以上の例は、対人論証と呼ばれるものである。もう一つのタイプとして、状況対人論証呼ばれるものがある。これは主に、相手がそういった主張をする意図を取り上げて、冷笑的に攻撃するものである。たとえば、「あなたは本当はこの町の犯罪率を下げることに関心などないのですよ。あなたは支持率が欲しいだけなのですから」という具合である。しかし、論証が受け入れられることで相手に何かの利益があるとしても、だからといってその主張が誤っているということにはならないのである。
人身攻撃はしばしば、お前だって論法の応酬に発展することによって、話題をそらすことに成功する。たとえば、ジョンが「こんな誠実さのない男の言うことが正しいと思いますか。なんで彼が前の仕事をクビになったのか、本人に訊いてみたらどうです」と言い、ジャックが「お前だって、去年、会社の規模が半分に縮小したのに、たんまりボーナスをもらっていたよな」と言い返す場面を想像してみよう。ご覧の通り、話の本題は、完全にどこかへ行ってしまっている。とはいえ、裁判における証言のように、発言者の信頼性を問題にすることが正当であるような場面も存在する。
9 このイラストは、Usenetで何年か前に交わされていた、興奮しやすいプログラマーと頑固なプログラマーのやり取りに着想を得たものである。
論者が暗黙理にあるいは明示的に、結論を正しいものと決め込んで、前提の中に含めてしまっている論法を、論点先取と呼ぶ。循環論法は、論点先取に分類される四種類の議論のうちの一つだ[Damer]。循環論法では、結論はあからさまに前提として示されているか、よりありがちな例としては、別の表現に言い換えられることで、実際は同じことを言っているにもかかわらず、あたかも別の命題であるかのように見せかけられている。たとえば、「君は間違っているよ。だって、まったく理にかなっていないもの」といった具合である。間違っていることと、理にかなっていないことは、この文脈では同じことを意味しているのだから、二つの命題は同じものである。この論証は単純に、「それはXであるがゆえに、Xである」と主張しているにすぎず、何の意味もないものだ。
循環論法は、ときには暗黙の前提に立脚することで、より見破られにくくなっている。無神論者に対して、「神を信じないと地獄に落ちるから、神を信じるべきだ」と主張している人を考えてみよう。誰かが地獄に落ちるというとき、その人を地獄に落とす神が存在することが、暗黙のうちに前提とされている。つまり、「信仰を持たない人を地獄に送る神が存在する」という前提が、「神が存在する」という結論を支持するために使われているのである。オーストラリアのテレビシリーズPlease Like Meに、コメディアンのジョッシュ・トーマス(Josh Thomas)がペグにこう告げるシーンがある。「ペグ、地獄を使って無神論者を脅かすことはできないよ。そんなのは理にかなっていない。ヒッピーが、お前のオーラを殴るぞと脅しているようなものだ」
部分がある性質を持つのだから、全体もまた同じ性質をもつだろうと推論することを、合成の誤謬という。ピーター・ミリカン(Peter Millican)の言葉を借りると、群れにいる全ての羊が母親を持つからといって、群れそのものに母親がいることにはならない。別の例をあげよう。「このソフトウェア・システムのそれぞれのモジュールはテストをクリアした。だから、これらのモジュールを組み合わせたシステムも、このテストで正しいとされた不変条件に違反することはないだろう」。現実には、個別のパーツを組み合わせてシステムをつくると、パーツ同士が相互作用するために、新しいレベルの複雑さが生まれ、うまくいかない理由も新しく生じる。
逆に、分割の誤謬とは、全体の持っている性質を、部分もまた持っていると推論することである。たとえば、「俺たちのチームは負けない! だから、俺たちのチームのメンバーが相手チームのメンバーと1対1で戦っても、必ず勝つだろう」といった具合である。チームが全体としては負けないというのが正しかったとしても、これはプレイヤーの個々のスキルが、いいチームワークで結びついているおかげかもしれない。だから、チームが負けないということを、個々のプレイヤーが負けないことの証拠として使うことはできないのだ。
何年も前のことになるが、ある教授が素晴らしい比喩を使って、演繹的論証を紹介してくれた。それは、水漏れのないパイプの一方から真理が入っていき、もう一方から真理が出てくるのが演繹的論証だというものだった。この本の表紙は、この喩えに触発されたものだ。この本を最後まで読んでくださった皆様が、水漏れのない論証が知識を確認し、拡張するために有益であることだけでなく、確率も問題になってくる帰納的論証の複雑さについても知っていただけたのなら幸いである。帰納的論証を行う際には特に、批判的思考は不可欠な道具である。薄っぺらな論証の危険性や、そういった論証がいかに私たちの日常にあふれているかについて、より意識的になってこの本を閉じていただければ嬉しい。
***
この企画が生を受けた段階から、翼を得て飛び立つに至るまでを一緒に見てきた人々に感謝して、この本を締めくくりたい。コメントと批判をくれたすべての人たちに(フィードバックは間違いなく、この本をよりよいものにしてくれた)、オンライン版を読んでくれた700,000人の読者に、初版の購入や寄付によってこの企画をサポートしてくれた4,000人近くの読者に、無名だった初版本をおいてくれた書店に、そして特に、オンライン版をそれぞれの国の言葉に翻訳してくれたボランティアの皆様に感謝したい。素晴らしい道のりだった。また、こんな経験ができることを願っている。
『絵で見てわかる誤謬の事典』日本語版をご覧いただき、ありがとうございます。クリエイティブ・コモンズとしてインターネット上で無料公開されるところからはじまった本書は、その後70万人以上の読者を得て、紙の本としても出版され、今日では7カ国語で翻訳も出版されています(web上では、この日本語版を入れて13カ国語で翻訳が公開されています)。
かわいらしいイラストをまじえつつ、論理的推論における「禁じ手」である誤謬を通じて、論理的推論を学んでいくという本書は、ユニークで、とても魅力的です(えてして、「禁じ手」というのは、私たちの好奇心を惹くものです)。論理的な考え方・書き方・話し方の重要性が高まっている現代において、多くの方にお読みいただければ、訳者としても望外の幸せです。
作者のアリ・アルモサウィさんには、私が日本語版の翻訳を担当することを快く許可していただいただけでなく、冗長と思われる箇所があれば自由に削除してよい、訳者あとがき(この文章のことです)も好きに付け加えてくれと、寛大なお言葉をいただきました(もちろん、なるたけ原文に忠実な翻訳をこころがけましたが)。記して感謝申し上げます。
命題(proposition):真か偽のどちらかであるが、その両方ではないような言明。たとえば、「ボストンはマサチューセッツ州で最大の都市である」といったもの。
前提(premiss / premise):論証の結論への支持を提供する命題のこと。論証は一つ以上の前提を含む。
論証(ARGUMENT):推論による説得を目的とした、一連の命題のこと。論証では、前提と呼ばれる命題の集合が、結論と呼ばれる命題への支持を与える。
演繹的論証(DEDUCTIVE ARGUMENT):もし前提が真であれば、結論も真であるような論証のこと。このとき、結論は、前提から論理的必然性をもって導かれるという言い方がされる。たとえば、「すべての人は死ぬ。ソクラテスは人間である。よって、ソクラテスは死ぬ」といった具合。演繹的論証は、妥当であることを意図したものだが、もちろんそうでない場合もある。
帰納的論証(INDUCTIVE ARGUMENT):もし前提が真であれば、結論が真である可能性が高いような論証のこと10。帰納的論証では、結論は前提から論理的必然として導かれるのではなく、あくまで可能性の高いものとして導かれるにすぎない。たとえば、「真空で光速を測定すると、いつでも〖3×10〗^8m/sだ。ゆえに、光速は普遍定数である」といった具合である。帰納的論証は通常、具体的な例から一般的な結論を導く。
10 科学では、データから法則へ、法則から理論への移行は、帰納的に行われる。帰納は、科学の大半の基礎なのだ。帰納は、典型的には、サンプルを用いて前提をテストすること(すべての場合をテストするのは現実的でないので)や、ただ単に考えること(実際にテストをすることが不可能な場合)を指すと考えられている。
論理的誤謬(LOGICAL FALLACY):ある命題から、次の命題を導く際の、推論の誤りのこと。論理的誤謬は、欠陥のある論証につながる。論理的誤謬は、よい構造や一貫性、明快さ、順序、適切さ、完全性といった、よい論証を形づくる原則を一つ以上破っている。論証の中に誤謬があることを発見したからといって、その結論が偽であると証明したことにはならない点に注意しよう。結論は真であるが、よりよい推論が必要だという場合だって考えられる。
形式的誤謬(formal fallacy):構造に欠陥があるために生じた、推論における誤りのこと。このタイプの誤謬は、論証の形式を分析するだけで、発見することができる。論証の内容を評価する必要はないのだ。(例として、32ページの後件肯定を参照せよ)
非形式的誤謬(informal fallacy):その形式ではなく、その内容と文脈に起因する推論の誤り。ただし、非形式的誤謬と呼ばれるのは、一般的に犯されやすい誤りだけである。(この本に収録されている誤謬のほとんどは、非形式的である)
妥当な(valid):結論が前提から論理的に導かれるとき、その演繹的論証は妥当な論証と呼ばれる。そうでない場合、その論証は妥当でない論証と呼ばれる。「妥当な」「妥当でない」といった言葉は、論証について使われるものであり、命題について使われることはない。
健全な(sound):妥当であり、かつ前提が真であるとき、その演繹的論証は健全な論証と呼ばれる。二つのうちのどちらかでも欠いてしまえば、その論証は健全でない論証である。論証の前提と結論が、現実世界における事実と合致するかを調べることで、真であるかどうかがわかる。
強い(strong):前提が真であれば、結論も真である可能性が極めて高いとき、その帰納的論証は強い論証と呼ばれる。結論が真である可能性が高くないとき、その論証は弱い論証とされる。可能性に立脚しているため、帰納的論証は真理保存的ではない。前提が正しければ、結論は必ず正しいということは、帰納的論証ではありえないのである。
説得的な(cogent):論証が強く、かつ前提が実際に正しい――つまり、現実と整合的である――とき、その帰納的論証は説得的である。そうでない場合、論証は説得的でないとされる。
反証可能な(falsifiable):観察や実験によって、誤りであると示せる可能性があるとき、その命題や論証は反証可能である。「すべての葉っぱは緑色である」という命題は、緑色でない葉っぱを指さすことによって、誤りであると示すことができる。反証可能性はその論証の弱さではなく、むしろその強さを示すものである。
[Aristotle] Aristotle, On Sophistical Refutations, translated by W. A. Pickard, http://classics.mit.edu/Aristotle/sophist_refut.html
[Avicenna] Avicenna, Treatise on Logic, translated by Farhang Zabeeh, 1971.
[Carroll] Lewis Carroll, Alice's Adventures in Wonderland, 2008,
http://www.gutenberg.org/files/11/11-h/11-h.htm
[Curtis] Gary N. Curtis, Fallacy Files, http://fallacyfiles.org
[Damer] T. Edward Damer, Attacking Faulty Reasoning: A Practical Guide to Fallacy-Free Arguments (6th ed), 2005.
[Engel] S. Morris Engel, With Good Reason: An Introduction to Informal Fallacies, 1999.
[Farmelo] Graham Farmelo, The Strangest Man: The Hidden Life of Paul Dirac, Mystic of the Atom, 2011.
[Fieser] James Fieser, Internet Encyclopedia of Philosophy, http://www.iep.utm.edu
[Firestein] Stuart Firestein, Ignorance: How it Drives Science, 2012.
[Fischer] David Hackett Fischer, Historians' Fallacies: Toward a Logic of Historical Thought, 1970.
[Gula] Robert J. Gula, Nonsense: A Handbook of Logical Fallacies, 2002.
[Hamblin] C. L. Hamblin, Fallacies, 1970.
[King] Stephen King, On Writing, 2000.
[Minsky] Marvin Minsky, The Society of Mind, 1988.
[Pólya] George Pólya, How to Solve It: A New Aspect of Mathematical Method, 2004.
[Russell] Bertrand Russell, The Problems of Philosophy, 1912,
http://ditext.com/russell/russell.html
[Sagan] Carl Sagan, The Demon-Haunted World: Science as a Candle in the Dark, 1995.
[Simanek] Donald E. Simanek, Uses and Misuses of Logic, 2002,
http://www.lhup.edu/~dsimanek/philosop/logic.htm
[Smith] Peter Smith, An Introduction to Formal Logic, 2003.
『絵で見てわかる誤謬の事典』をお読みいただき、ありがとうございました。お気づきの点がありましたら、作者までご報告ください。
この本をサポートしてくださる寄付を募集しています。
Secure payments by stripe
Background image courtesy of subtlepatterns